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父・毛利元就危篤につき

墓前祭があったので、この間見た書状を。

吉川家文書1209号
書き下し文
先書に申す如く候、上の御煩い今度了簡に及ばず事に候、
 御下の儀、いかが候はん哉。
 勝事にて候、御心遣い申す事無き候、
 元春御下向の事は、某許の趣によるへき候条
 爰許より相定められ候て仰せられずの由、
 輝元仰せられ候、其口又上口所々正体無く罷り成り候々
 此の表の儀も分もなき体たるへき候
 御相談折節ため隆家、信直、貞俊、道良御参上候て
 万申し談じ候。内々御覚悟の前に候条、申すに及ばず候
 なお此のもの申すべく候。恐惶謹言。

     6月14日     隆景
   元春 御申之」


私訳
前に送った手紙で申した通り、父上の病状ですが
 もう快復の見込みはないだろうとの事です。
 こちらに戻ってこられますか、どうされますか。
 兄さんのことだから尼子との戦いには勝つでしょう。
 それに関してはこちらから心遣いはしません。

 「元春叔父上の吉田下りはそちらの様子によるだろうから
  こちら側で決めてどうこうというわけにはいかない。」
 輝元はそう仰っています。

 出雲表やそれよりも東側で毛利方についていた国衆の中には
 味方であったのに、再び尼子方になりそうな者も出始め、
 雲行きが怪しくなってきました。

 こちら側のことですが、分を弁えて行動することができておらず
 落ち着きがなくなってきています。
 父上の葬儀のことなどの相談を折り合うために
 宍戸隆家、熊谷信直、福原貞俊、口羽道良が御参上し、
 万のことを話し合っております。

 父上の事ですが、内心もう覚悟をされているでしょうから
 これ以上は何も申し上げません。
 なお、この者が申し上げます。恐々謹言

     6月14日        隆景
   元春へこれを申してください。」


毛利元就は旧暦6月14日辰の刻に75歳で亡くなります。
この手紙は元就が亡くなる直前に書かれたものになります。
辰の刻は午前8~10時。
臨終の時は家族、皆が詰めていたでしょうから、
その合間をぬって書かれた手紙でしょう。

直筆書状で残っているのですが、
この時期の隆景にしては珍しく、字が不ぞろいです。
最初の「先書ニ如申候 上之御煩今度不了簡事ニ候」は、
字がくしゃくしゃとして小さく、筆が乱れています。
元就は70を超えてから病がちになり、
この手紙の元亀2年の2月には小康状態となったようですが
5月から再び病状が悪化し、
尼子攻めに赴いていた隆景や輝元は吉田に帰っていました。
隆景も覚悟していたとはいえ、
心は相当乱れていたことが字から読みとれます。

また、手紙も幾通か送ったようで、端書きに
「辺々此者内へ三同前ニ進物にて候へ共
 彼仁ハ馬にて候間、先々進之候」

とあり「先書」が届くよりも前にこの手紙が届いています。
よほど焦っていたのだろうなと思います。

次の「御下之儀」は元春の下向について。
この時期、出雲では尼子勝久を中心とした尼子氏再興運動が起きていましたが
ほぼ主要な所は陥落し、あと一歩で平定できるところまで追いつめていました。

なので隆景は「勝事にて候、御心遣無申事候
「勝つでしょうから、陣中見舞いなどの心遣いは申しません。」
と随分きっぱり言っています。
・・・・兄・元春に対しての信頼?
だと思います。ちょっといつもの隆景らしさが戻ってきてます。
ここら辺から字もややしっかりしたものに戻っていた感じでした。

しかし、元就危篤に「其口又上口所々無正体可罷成候々」と、
出雲よりも東の伯耆や因幡の国人衆の中には寝返りそうなものもいたようです。
元春が戦況を脱することで、出雲方面の抑えが無くなり、
再び乱れる可能性がありました。
だからといって父親が危篤なのに戻ってくるなとも言えず、
この時当主であった輝元は
「爰元より被相定候て不被仰之由」
と、判断を元春おじさんに任せるとしています。

・・・戦国時代なので父親の死に際よりも戦で家を守るほうが大事。
むしろ、父親は戦の相手だったりすることも珍しくないのに
家族の絆が強かったことを伺わせるものだなと思います。

それから、この手紙で訳すのに困ったのが「此表之儀」
隆景の出した手紙なので、隆景方の戦とすれば
備前の浦上氏と動きのおかしい村上氏。
ですが、「分もなき体たるべき候」
「分もなき」の「分」は「分を弁える」と同じ、「なすべき行い」なので、
訳せば「なすべき行いもしない体たらく」になります。
戦中に隆景の率いる軍でそのようなことは起こり得ないでしょうから
「此表之儀」とは父危篤に際して家中の混乱具合を
戦と同じほど深刻な問題であるから「此表」としたのかなと思います。

続いて家中の混乱を鎮めるのと今後の事を話し合うために
宍戸隆家、熊谷信直、福原貞俊、口羽道良が呼ばれたとあります。

隆家は娘婿で、隆景達よりも10才以上年長。
家族の中で一番頼れるお義兄さん。
五竜もまだ存命なので、妻と一緒に帰っていた可能性が高いです。
戦国時代、嫁に出たら実家に帰ることはまずないんですが、
輝元はこの時期、吉見に嫁いだ姉に
じい様の病状が悪いから実家に帰ってくる?
と聞いています。
津和局の輝元姉でさえ、声をかけるのですから、
五竜が帰って来ていないはずがないだろうなあと・・・。

それから熊谷信直
元春の舅で、臨終に集まった家族の中では恐らく最年長。
ずっと元就に付き従っていた国人です。
その忠誠心の高さは、遺書に供養よりも毛利家の奉公こそ
我が供養になる
と書いたほどです。

福原貞俊は毛利の庶子家筆頭。
口羽道良は執権志路広良の息子。
この2人は後に隆景と元春を合わせた
御四人と呼ばれる政治体勢で輝元を補佐していきます。

御四人に熊谷信直や宍戸隆家が入らなかったのは
家族に近い扱いなのですが、
やはり国人だからかなと思います。
まあ、熊谷さんと隆家さんは文将よりも武将なので
政治体制には入らなかったのかもしれませんが。

最後に「内々御覚悟之前に候条、不及申候」
「内心、前から覚悟はしているでしょうから。
 申さなくてもよいでしょう。」

と隆景は細かいことは使者に任せています。

結局、元春は吉田に戻りませんでした。
そのまま尼子勝久を追い詰め、尼子再興運動は挫折。
多分、この手紙がつくのと同時ぐらいに
父死去の手紙が届いたのもあるのでしょうが、
輝元と隆景を吉田に返した時点で、
父の死を看取ることは諦めていただろうと思います。
元春は隆元亡き後、兄弟の一番上として常に覚悟をしていたようで
備中高松城の戦いでは一番最前線に陣を敷いています。
万一の時は隆景や輝元を逃がそうという陣構えです。
三子教訓状の時も1人石見攻めしていたりと
協調性があまりなく見えますが、
心の奥では家族を深く思いやっていたんだなというのが
書状から分かります。

また、隆景の内心が字にかなり現れていて
最初は乱れていた字が、次第に大きくなり
最後はいつものしっかりした筆跡に戻っていました。
兄に手紙を書く中で、心の整理がついてきたんだなというのが
文字からわかりました。
三原の隆景展か吉川史料館で見たと思うのですが、
実物を見ることで分かるものがあるんだなと思いました。
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