「郡山城と城下の構造を再考する」講義録
今日は秋山先生の講義を聴きに吉田歴史民俗博物館にいって参りました。
先生が講座を吉田で開かれるようになられてから、もう27年も経つんだそうです。
その中で「郡山城」をテーマに話をされたことが過去にも何度かあり、
今回は過去のものをベースに城と城下町について再考されちゃったことを
お話されてでした。
確かに吉田郡山城はテーマになることが多く、
過去の吉田の公開講座では、
●三浦先生の「毛利の城」12
●山城シンポジウム
●「興元とその時代」中の木村先生のお話
等、がありました。
でも、秋山先生の郡山城話を聞くのは多分私は初めて。
どんなお話かなとわくわくしてきました。
因みに、過去のものは吉田歴史民俗博物館の図録に記載されているそうです。
で、先生11月に城下町科研グループのシンポジウムで報告されるそうで
その内容を話すにあたり、今回再考したことを講座ではお話されちゃってでした。
郡山城は全国の戦国期の城郭の中でも、
城と同時期に書かれた文献資料が多く残る。
その量は全国でもっとも多いのではないか。
加えて村山檀那帳にある家臣団の記録から、
誰がどこらへんに住んでいたかも推測できるそうです。
1.郡山城の構造
(1)元就・隆元・輝元の郡山城
皆さんに話すまでもないでしょうが、
・・・・と先生仰ってでしたが、いや、でも基礎って大事だと思うんです。
今回先生の説明はかなり詳しくて、初心者の方でも分かりやすかったのではないかなと。
天正9年まで
旧本城が郡山城、尼子が攻めてきた後全山城郭化。
天正10~16年
輝元による大改造
(例)麓の改造・・・堀の整備、城下町を分限に相応しく大通り沿いの家は白壁に
城の改造・・・入口に大門、2の丸から3の丸に石垣。
天正16年
輝元、上阪。
広島城築城へ
ただし、広島城ができても郡山城は使用。
→隆景や元清が吉田を訪れている。
ということで、今我々が見ているのは輝元の郡山城。
・・・そういえば、ずっと前の講座で郡山城に瓦拭きの建物があったかどうか。
という質問がありましたが、多分あっても蔵ぐらいではないか。
と仰られてましたが、輝元時代なら瓦拭きあってもおかしくないですね。
それから先生の若い頃は山城は戦時の時に籠る城で
不便だから普段は麓の屋敷で暮らしていた。
という説だったそうですが、毛利家の場合を見てみると
元就も隆元も輝元も書状からすると、全員山の上に暮らしている。
そして、それを裏付けるのが「村山檀那帳」
(2)村山檀那帳と絵図
伊勢の御師・村山さんが「吉田・沼田・中郡」を訪問した記録。
61の地域別に1087人の名前が記載されているんだそうです。
ようは営業エリアと顧客名簿。
・・・・と、先生、例えられてました。
おお、なるほど!分かりやすいです。
因みに、この営業エリア。
毛利氏の拡大と共に広がったようで
後に山口、富田、備中の地名が出てくるようになったそうです。
・・・ああ、だから小早川さん担当の御師で
竹原担当VS本郷担当で揉めていたのか。
営業エリアかなり変わりますからなぁ・・・。
で、吉川が入っていないのは担当者が違うから。
吉川さんは橋村さんが担当者なんだそうです。
・・・よくある元春だけはぶられていたんではないんですね。良かった。
ってことは橋下さんとこに檀那帳があれば日の山城付近も
家臣配置が分かるんでしょうか。
村山檀那帳は、吉田→下吉田と回っており、
1番初めは輝元。
2番は御かみさま様。
3番は御つほね様。
御局様が誰なのかは謎なんだそうです。
・・・この村山檀那帳は天正9年。
カサ付近には、輝元夫婦ともう一人女性が住んでいた。
ですが、輝元の母は元就死後の1年後、元亀3年没。
姉は元亀2年に亡くなっています。
なので、輝元の家族筋で該当する女性はいません。
先生はこの局は輝元の側室では。
と推測されていました。
・・・ううん、中の丸らしき人名がないんですが
東の大方と呼ばれていたのでカサにはいないか。
名前一覧を見ていると当主の母は「大方」ではなく
「大かみさま」と記載されているようです。
ですが、やっぱりそれらしき名はない。
ううん。
4番は満願寺。
5番は桂就宣
6番はその妻
桂就宣は桂元忠の跡継ぎ。
・・・元忠は桂元澄の弟で、元就派の奉行衆。
元亀3年に引退し、その息子が輝元の側近として仕えた。
ので、恐らく元就さん時代には桂元忠が住んでおり
その屋敷を就宣が引き継いだのでしょう。
このように郡山城は、家臣と家臣の家族が住んでいることが分かるんだそうです。
戦国期の山城で家臣がどこに住んでいるかが分かるのは
郡山城だけではないか。村山檀那帳はそれだけ価値ある史料なんだそうです。
因みに県史古代中世Ⅴの県外文書の目玉ではないか。
と先生仰ってでした。
そしてこの名簿に加えて、郡山城は絵図が残っています。
江戸時代に書かれたものではありますが、
城に住む家臣の名前が書いてあるので
この2つを使えばかなり再現できるんだそうです。
(3)城と里・麓
先生曰く、往来、郡山城は「城」と「山麓」の2つに区分されていると思っていた。
なぜかといういうと閥閲録の有福宛ての文章に
「出雲出兵したいと言われているが、吉田が手薄なので
麓在番をして頂きたい。」
と書かれてあることから、
郡山城は城の部分と麓を合わせて城内なのだろうと思われていたそうです。
しかし、三浦家文書を見ておかしいと思われたそうです。
書状には
「彼の丸御つほね」を福原に返して、
「あはいさま」を丸へ登らせることはできないか。
城が窮屈なら麓に遊びに行くこともできるようにし
城と麓の区別なく寛げるように・・・
とあることから、麓は城とは違うのでは?
と気付かれたんだそうです。
ついでに、あはいさまが檀那帳の町の御局様ではないか。
故に、城の御局様は輝元の側室ではないだろうか。
と推測できるんだそうです。
よって郡山城は堀で麓部分と仕切られ、
堀内だけが城の範囲として考えられていたのではないか。
と仰られていました。
・・・・堀は山の際に沿って掘られており、
そこで城と麓の区別がされている。
郡山城がそうであれば、安芸の山城も多くはそれに基づいて
城基準になっていそうです。勉強になりました。
まあ、でも一番インパクトでかかったのは輝元ですが・・・。
何人いたんだろう側室。
ううん、でも「あはい」さんってどこかで聞いたことがあるような・・・。
井上衆が打ち果たされた時に、今は物騒だから落ち着くまで帰ってくるな。
と難波にいる井上さんに手紙をだした女性が「あはい」さんだった気がします。
屋敷の位置的に、井上さんの可能性もありますし、
ころころ側室は替えれるものでもないでしょうし・・・。
ううん、質問すれば良かったかも。
(4)城の山上構造
「かさ」・・・嵩、高い場所という意味で漢字では「山ヘンに登る」
山の下に登る。どの道高い場所。
元就もここに住んでおり、桂元忠も住んでいた。
「かさのほうし」と呼ばれる子が髪置きする時に、
四郎と六郎が麓へ行っているから帰ってくるように。
とあることから、カサには三吉氏も住んでいた。
「尾崎」・・・旧城から隆元夫妻が移った場所。
「丸」・・・・・乃美氏が住んでいた。
余談ですが、カープの丸が乃美に行ったり、
吉田郡山の丸に上がったりしてくれませんかね。
と先生仰ってました。うん、素晴らしい考えだと思います!
してくれたら話題になると思うんですが。
「中の丸」小幡氏が住んでいた場所。
(5)記載者の内分
記載されている名前は山頂から山麓へ向かっているそうです。
合計で74人の人名が載っており、
彼らは「年寄」「奉行」「近習」の3グループに分けられそうです。
年寄衆は御4人の次に命令を伝える役割で
在城を申し付けられていた。(毛利家文書404)
年寄衆・奉行衆の下に近習衆がいて、彼らは事務方。
郡山城が政庁として使われていることが分かり
在城することは宿舎と同じだと考えられるんだそうです。
この他にも「里衆」「里近習衆」もおり、
例えば宍戸元親。
替地について揉めていたようですが、それはもういいから
在城ではなく「里居」したい。
と言っていると隆元が書状で述べている。
娘が亡くなってからやる気がなくなったようです。
それから佐藤元実。
隆元が信頼していた人物で仲が良く、
彼宛ての直筆書状が多く残っているんだそうです。
彼は「里居」しており、息子が亡くなって気落ちしていていたようで
落ち着いたらでいいから登城してほしいと隆元が述べています。
これら、「里居」から里に暮らしている近習衆がいたことが分かるそうです。
郡山城絵図では国司や東、佐藤は堀内のように書かれていますが
書状などから彼らは掘外の麓に住んでいたのが正しいのだそうです。
・・・ふむふむ。
城と麓・里は堀で仕切られ、
城に住むのは在番。
里は里居と分けていた。
書状を読むに在番よりも里居の方が気楽だった気がします。
替地よりも里居したいと望んでいるようなので。
まあ、城=仕事場ですから、仕事場で暮らしたくはないか。
里に住んでいて、登城するほうが楽です。うん。
3.城下町吉田の構造
(1)吉田の上下
郡山籠城日記から上と下の様子がわかるそうです。
まずは上吉田。
尼子が吉田の上村に放火して家が少し焼けた。
よって上吉田は家が少なく農村であったのでは?
因みに今の相合らしいです。
それから下吉田。
檀那帳には本城の南から東の人物が書かれている。
それから郡山城籠城日記には太郎丸其外町屋放火とあるので
町屋が広がっていたことがわかるんだそうです。
(2)市
吉田には三日市、六日市、十日市がありました。
三日市は太郎丸と呼ばれた辺り。
城から見て多治比川の南。
井上衆が通交税を取っていたようで元兼の息子が屋敷を構えていた。
その屋敷跡は郡山城図では渡辺が住んでいるとあり、
檀那帳も渡辺肥後守が出てくるんだそうです。
・・・ゆめタウン吉田のあたりなので
ゆめタウン吉田の店長と例えられるあれですね。
ううん、でも多治比川の流れが今と少し違うのでしょうか。
位置的には川向こうであれば、むしろ
ジュンテンドー吉田とユアーズ吉田っぽいです。
あ、ていうか地図見るときちんと太郎丸という地名が残っています。
ふむ、400年間変わっていないのですね。
続いて十日市。
ここは武士の名前が出て来ない。
商人や職人らしき名前がある中、
佐藤源七郎だけ名字がある。
ここは郡山図では元清御宿となっています。
この佐藤は元々井上氏で、
天文21年に隆元の命で改名しているんだそうです。
背景には天文19年の井上一族の誅伐があった。
それから井上七郎次郎は同姓同名がいて、
この中河原の井上七郎次郎と呼んで区別していた。
これらから、中河原は十日市と推定できる。
河原は誰の土地でもないので市が立ちやすい。
この中河原は自然発生的にできたまちではないか。
と仰られていました。
なので、武士が移転した後も町として残っている。
これは現在の市役所付近だと推定できるんだそうです。
・・・確かに今でも町の中心になっています。
そういえば、元就さんがかわた頭を300石で召し抱えた。
という記録もあるそうですから色な人が集まっていたんだろうなと思います。
・・・佐藤さん、宿屋さんしていたんですね。
戦国時代にも宿屋さんあるんだ。
桜尾城主元清が泊るってことは相当大きかったんでしょうなあ。
っていうか、やっぱり同姓同名とかいたんですね。
井上さん、ここのところクラスに2人いる状態続いていましたし、
今みたいに名前がきらきらしていなかった頃はそりゃあ同名も
珍しくないだろうなあと。
最後に六日市。
「まち」には目代が置かれていて、八か国分限帳には同じ石高で
後藤与三郎の名前が挙げられています。
また村山檀那帳に載っている返章には後藤種重と種盛とあることから
目代は後藤さんで一致。
また、「まち」と時折あるのは、道順から
郡山城に一番近い六日市ではないかと考えられるんだそうです。
・・・・実際、六日市は今も字で残っています。
この「まち」は惣構を隆元が命じており、
「堀のしきり」に端が繋がるようになったので
堀まで繋がっていたと分かるんだそうです。
人夫に縄を持たせているので恐らく柵もあったのだろう。と。
それから「人質」
三村少輔五郎という備中三村氏の人質が宿所で口論になった。
と閥閲録で児玉小次郎が述べています
どうも児玉氏が人質や町の番をしていたようで
児玉若狭守宛ての書状には「人質番肝要之儀につき」
「ふもと廻りの儀」等を元就から指示されています。
人質と言っても、割と自由に過ごしているらしく
例として隆元のことが挙げられていました。
・・・宿所で口論。
三村さんか・・・。永禄8年ならまだセーフですね。
それと、三原城では隆景が城下見回り班を作っていましたが、
そうか人質の管理と町の見回りを兼ねていたのかと気付きました。
まあ、六日市の辺りまで子どもの元清達が遊びに出かけているぐらいですから
治安は良かったんでしょう。
十日市は止められてそうですけど。
・・・・それと、元就さんの言葉を隆景が後に記したとされる
「永禄聞書」にも人質や出陣している時の留守番について書かれてありました。
今回の書状を見ているとやはり永禄聞書は
隆景が書いた可能性がかなり高いのではないか。と思います。
感想としては、村山檀那帳一覧と郡山城図の合わせ技で
郡山城と城下町の様子が再現できるのは素晴らしいなと思いました。
吉田の町並みは基本的には変わっていないので、
道も郡山図とほぼ同じ場所もあります。
これに明治の地図を重ねれば現代の位置に落とすことができそうだなと思いました。
それから、ひたすら配って回られている「のし」。
今年は旅行で伊勢神宮に行って来たので
「のし」の説明を聞いたのですが、
おお、ほんまに「のし鮑」を配って回っている。と驚嘆しました。
というか、
あの距離を吉田まで歩いてくる&こんだけ熨斗を運んでくる。
すごい道中だなあと思います。
でも、そのおかげでこうして城のマップができるので
本当に感謝の一言だなと思います。
ううん、ただ伊勢神宮よりも出雲大社の方が近いはず。
出雲大社も遷宮をするために歩きまわっているはず。
出雲大社にもこういう寄付した人の名前一覧はないんでしょうか。
もし、あれば天文年間の建て替えがあったはずだから
大内さんも毛利さんも尼子さんも全て分かるんじゃないでしょうか。
ふむ、まだまだ眠っている史料もありそうです。
先生が講座を吉田で開かれるようになられてから、もう27年も経つんだそうです。
その中で「郡山城」をテーマに話をされたことが過去にも何度かあり、
今回は過去のものをベースに城と城下町について再考されちゃったことを
お話されてでした。
確かに吉田郡山城はテーマになることが多く、
過去の吉田の公開講座では、
●三浦先生の「毛利の城」12
●山城シンポジウム
●「興元とその時代」中の木村先生のお話
等、がありました。
でも、秋山先生の郡山城話を聞くのは多分私は初めて。
どんなお話かなとわくわくしてきました。
因みに、過去のものは吉田歴史民俗博物館の図録に記載されているそうです。
で、先生11月に城下町科研グループのシンポジウムで報告されるそうで
その内容を話すにあたり、今回再考したことを講座ではお話されちゃってでした。
郡山城は全国の戦国期の城郭の中でも、
城と同時期に書かれた文献資料が多く残る。
その量は全国でもっとも多いのではないか。
加えて村山檀那帳にある家臣団の記録から、
誰がどこらへんに住んでいたかも推測できるそうです。
1.郡山城の構造
(1)元就・隆元・輝元の郡山城
皆さんに話すまでもないでしょうが、
・・・・と先生仰ってでしたが、いや、でも基礎って大事だと思うんです。
今回先生の説明はかなり詳しくて、初心者の方でも分かりやすかったのではないかなと。
天正9年まで
旧本城が郡山城、尼子が攻めてきた後全山城郭化。
天正10~16年
輝元による大改造
(例)麓の改造・・・堀の整備、城下町を分限に相応しく大通り沿いの家は白壁に
城の改造・・・入口に大門、2の丸から3の丸に石垣。
天正16年
輝元、上阪。
広島城築城へ
ただし、広島城ができても郡山城は使用。
→隆景や元清が吉田を訪れている。
ということで、今我々が見ているのは輝元の郡山城。
・・・そういえば、ずっと前の講座で郡山城に瓦拭きの建物があったかどうか。
という質問がありましたが、多分あっても蔵ぐらいではないか。
と仰られてましたが、輝元時代なら瓦拭きあってもおかしくないですね。
それから先生の若い頃は山城は戦時の時に籠る城で
不便だから普段は麓の屋敷で暮らしていた。
という説だったそうですが、毛利家の場合を見てみると
元就も隆元も輝元も書状からすると、全員山の上に暮らしている。
そして、それを裏付けるのが「村山檀那帳」
(2)村山檀那帳と絵図
伊勢の御師・村山さんが「吉田・沼田・中郡」を訪問した記録。
61の地域別に1087人の名前が記載されているんだそうです。
ようは営業エリアと顧客名簿。
・・・・と、先生、例えられてました。
おお、なるほど!分かりやすいです。
因みに、この営業エリア。
毛利氏の拡大と共に広がったようで
後に山口、富田、備中の地名が出てくるようになったそうです。
・・・ああ、だから小早川さん担当の御師で
竹原担当VS本郷担当で揉めていたのか。
営業エリアかなり変わりますからなぁ・・・。
で、吉川が入っていないのは担当者が違うから。
吉川さんは橋村さんが担当者なんだそうです。
・・・よくある元春だけはぶられていたんではないんですね。良かった。
ってことは橋下さんとこに檀那帳があれば日の山城付近も
家臣配置が分かるんでしょうか。
村山檀那帳は、吉田→下吉田と回っており、
1番初めは輝元。
2番は御かみさま様。
3番は御つほね様。
御局様が誰なのかは謎なんだそうです。
・・・この村山檀那帳は天正9年。
カサ付近には、輝元夫婦ともう一人女性が住んでいた。
ですが、輝元の母は元就死後の1年後、元亀3年没。
姉は元亀2年に亡くなっています。
なので、輝元の家族筋で該当する女性はいません。
先生はこの局は輝元の側室では。
と推測されていました。
・・・ううん、中の丸らしき人名がないんですが
東の大方と呼ばれていたのでカサにはいないか。
名前一覧を見ていると当主の母は「大方」ではなく
「大かみさま」と記載されているようです。
ですが、やっぱりそれらしき名はない。
ううん。
4番は満願寺。
5番は桂就宣
6番はその妻
桂就宣は桂元忠の跡継ぎ。
・・・元忠は桂元澄の弟で、元就派の奉行衆。
元亀3年に引退し、その息子が輝元の側近として仕えた。
ので、恐らく元就さん時代には桂元忠が住んでおり
その屋敷を就宣が引き継いだのでしょう。
このように郡山城は、家臣と家臣の家族が住んでいることが分かるんだそうです。
戦国期の山城で家臣がどこに住んでいるかが分かるのは
郡山城だけではないか。村山檀那帳はそれだけ価値ある史料なんだそうです。
因みに県史古代中世Ⅴの県外文書の目玉ではないか。
と先生仰ってでした。
そしてこの名簿に加えて、郡山城は絵図が残っています。
江戸時代に書かれたものではありますが、
城に住む家臣の名前が書いてあるので
この2つを使えばかなり再現できるんだそうです。
(3)城と里・麓
先生曰く、往来、郡山城は「城」と「山麓」の2つに区分されていると思っていた。
なぜかといういうと閥閲録の有福宛ての文章に
「出雲出兵したいと言われているが、吉田が手薄なので
麓在番をして頂きたい。」
と書かれてあることから、
郡山城は城の部分と麓を合わせて城内なのだろうと思われていたそうです。
しかし、三浦家文書を見ておかしいと思われたそうです。
書状には
「彼の丸御つほね」を福原に返して、
「あはいさま」を丸へ登らせることはできないか。
城が窮屈なら麓に遊びに行くこともできるようにし
城と麓の区別なく寛げるように・・・
とあることから、麓は城とは違うのでは?
と気付かれたんだそうです。
ついでに、あはいさまが檀那帳の町の御局様ではないか。
故に、城の御局様は輝元の側室ではないだろうか。
と推測できるんだそうです。
よって郡山城は堀で麓部分と仕切られ、
堀内だけが城の範囲として考えられていたのではないか。
と仰られていました。
・・・・堀は山の際に沿って掘られており、
そこで城と麓の区別がされている。
郡山城がそうであれば、安芸の山城も多くはそれに基づいて
城基準になっていそうです。勉強になりました。
まあ、でも一番インパクトでかかったのは輝元ですが・・・。
何人いたんだろう側室。
ううん、でも「あはい」さんってどこかで聞いたことがあるような・・・。
井上衆が打ち果たされた時に、今は物騒だから落ち着くまで帰ってくるな。
と難波にいる井上さんに手紙をだした女性が「あはい」さんだった気がします。
屋敷の位置的に、井上さんの可能性もありますし、
ころころ側室は替えれるものでもないでしょうし・・・。
ううん、質問すれば良かったかも。
(4)城の山上構造
「かさ」・・・嵩、高い場所という意味で漢字では「山ヘンに登る」
山の下に登る。どの道高い場所。
元就もここに住んでおり、桂元忠も住んでいた。
「かさのほうし」と呼ばれる子が髪置きする時に、
四郎と六郎が麓へ行っているから帰ってくるように。
とあることから、カサには三吉氏も住んでいた。
「尾崎」・・・旧城から隆元夫妻が移った場所。
「丸」・・・・・乃美氏が住んでいた。
余談ですが、カープの丸が乃美に行ったり、
吉田郡山の丸に上がったりしてくれませんかね。
と先生仰ってました。うん、素晴らしい考えだと思います!
してくれたら話題になると思うんですが。
「中の丸」小幡氏が住んでいた場所。
(5)記載者の内分
記載されている名前は山頂から山麓へ向かっているそうです。
合計で74人の人名が載っており、
彼らは「年寄」「奉行」「近習」の3グループに分けられそうです。
年寄衆は御4人の次に命令を伝える役割で
在城を申し付けられていた。(毛利家文書404)
年寄衆・奉行衆の下に近習衆がいて、彼らは事務方。
郡山城が政庁として使われていることが分かり
在城することは宿舎と同じだと考えられるんだそうです。
この他にも「里衆」「里近習衆」もおり、
例えば宍戸元親。
替地について揉めていたようですが、それはもういいから
在城ではなく「里居」したい。
と言っていると隆元が書状で述べている。
娘が亡くなってからやる気がなくなったようです。
それから佐藤元実。
隆元が信頼していた人物で仲が良く、
彼宛ての直筆書状が多く残っているんだそうです。
彼は「里居」しており、息子が亡くなって気落ちしていていたようで
落ち着いたらでいいから登城してほしいと隆元が述べています。
これら、「里居」から里に暮らしている近習衆がいたことが分かるそうです。
郡山城絵図では国司や東、佐藤は堀内のように書かれていますが
書状などから彼らは掘外の麓に住んでいたのが正しいのだそうです。
・・・ふむふむ。
城と麓・里は堀で仕切られ、
城に住むのは在番。
里は里居と分けていた。
書状を読むに在番よりも里居の方が気楽だった気がします。
替地よりも里居したいと望んでいるようなので。
まあ、城=仕事場ですから、仕事場で暮らしたくはないか。
里に住んでいて、登城するほうが楽です。うん。
3.城下町吉田の構造
(1)吉田の上下
郡山籠城日記から上と下の様子がわかるそうです。
まずは上吉田。
尼子が吉田の上村に放火して家が少し焼けた。
よって上吉田は家が少なく農村であったのでは?
因みに今の相合らしいです。
それから下吉田。
檀那帳には本城の南から東の人物が書かれている。
それから郡山城籠城日記には太郎丸其外町屋放火とあるので
町屋が広がっていたことがわかるんだそうです。
(2)市
吉田には三日市、六日市、十日市がありました。
三日市は太郎丸と呼ばれた辺り。
城から見て多治比川の南。
井上衆が通交税を取っていたようで元兼の息子が屋敷を構えていた。
その屋敷跡は郡山城図では渡辺が住んでいるとあり、
檀那帳も渡辺肥後守が出てくるんだそうです。
・・・ゆめタウン吉田のあたりなので
ゆめタウン吉田の店長と例えられるあれですね。
ううん、でも多治比川の流れが今と少し違うのでしょうか。
位置的には川向こうであれば、むしろ
ジュンテンドー吉田とユアーズ吉田っぽいです。
あ、ていうか地図見るときちんと太郎丸という地名が残っています。
ふむ、400年間変わっていないのですね。
続いて十日市。
ここは武士の名前が出て来ない。
商人や職人らしき名前がある中、
佐藤源七郎だけ名字がある。
ここは郡山図では元清御宿となっています。
この佐藤は元々井上氏で、
天文21年に隆元の命で改名しているんだそうです。
背景には天文19年の井上一族の誅伐があった。
それから井上七郎次郎は同姓同名がいて、
この中河原の井上七郎次郎と呼んで区別していた。
これらから、中河原は十日市と推定できる。
河原は誰の土地でもないので市が立ちやすい。
この中河原は自然発生的にできたまちではないか。
と仰られていました。
なので、武士が移転した後も町として残っている。
これは現在の市役所付近だと推定できるんだそうです。
・・・確かに今でも町の中心になっています。
そういえば、元就さんがかわた頭を300石で召し抱えた。
という記録もあるそうですから色な人が集まっていたんだろうなと思います。
・・・佐藤さん、宿屋さんしていたんですね。
戦国時代にも宿屋さんあるんだ。
桜尾城主元清が泊るってことは相当大きかったんでしょうなあ。
っていうか、やっぱり同姓同名とかいたんですね。
井上さん、ここのところクラスに2人いる状態続いていましたし、
今みたいに名前がきらきらしていなかった頃はそりゃあ同名も
珍しくないだろうなあと。
最後に六日市。
「まち」には目代が置かれていて、八か国分限帳には同じ石高で
後藤与三郎の名前が挙げられています。
また村山檀那帳に載っている返章には後藤種重と種盛とあることから
目代は後藤さんで一致。
また、「まち」と時折あるのは、道順から
郡山城に一番近い六日市ではないかと考えられるんだそうです。
・・・・実際、六日市は今も字で残っています。
この「まち」は惣構を隆元が命じており、
「堀のしきり」に端が繋がるようになったので
堀まで繋がっていたと分かるんだそうです。
人夫に縄を持たせているので恐らく柵もあったのだろう。と。
それから「人質」
三村少輔五郎という備中三村氏の人質が宿所で口論になった。
と閥閲録で児玉小次郎が述べています
どうも児玉氏が人質や町の番をしていたようで
児玉若狭守宛ての書状には「人質番肝要之儀につき」
「ふもと廻りの儀」等を元就から指示されています。
人質と言っても、割と自由に過ごしているらしく
例として隆元のことが挙げられていました。
・・・宿所で口論。
三村さんか・・・。永禄8年ならまだセーフですね。
それと、三原城では隆景が城下見回り班を作っていましたが、
そうか人質の管理と町の見回りを兼ねていたのかと気付きました。
まあ、六日市の辺りまで子どもの元清達が遊びに出かけているぐらいですから
治安は良かったんでしょう。
十日市は止められてそうですけど。
・・・・それと、元就さんの言葉を隆景が後に記したとされる
「永禄聞書」にも人質や出陣している時の留守番について書かれてありました。
今回の書状を見ているとやはり永禄聞書は
隆景が書いた可能性がかなり高いのではないか。と思います。
感想としては、村山檀那帳一覧と郡山城図の合わせ技で
郡山城と城下町の様子が再現できるのは素晴らしいなと思いました。
吉田の町並みは基本的には変わっていないので、
道も郡山図とほぼ同じ場所もあります。
これに明治の地図を重ねれば現代の位置に落とすことができそうだなと思いました。
それから、ひたすら配って回られている「のし」。
今年は旅行で伊勢神宮に行って来たので
「のし」の説明を聞いたのですが、
おお、ほんまに「のし鮑」を配って回っている。と驚嘆しました。
というか、
あの距離を吉田まで歩いてくる&こんだけ熨斗を運んでくる。
すごい道中だなあと思います。
でも、そのおかげでこうして城のマップができるので
本当に感謝の一言だなと思います。
ううん、ただ伊勢神宮よりも出雲大社の方が近いはず。
出雲大社も遷宮をするために歩きまわっているはず。
出雲大社にもこういう寄付した人の名前一覧はないんでしょうか。
もし、あれば天文年間の建て替えがあったはずだから
大内さんも毛利さんも尼子さんも全て分かるんじゃないでしょうか。
ふむ、まだまだ眠っている史料もありそうです。