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「明智光秀の城下町・福知山」~丹波探訪②~

黒井を堪能したあと、一旦福知山に戻ります。
電車の乗り継ぎ考えると福知山を起点にすると便利なのです。
で、行って参りました福知山城。

駅から歩いて15分。
至る所に「明智光秀」推しの旗が立っています。
福知山は明智光秀が城を建て、作った城下町
また、善政を施いたため、領民からはかなり慕われていたようで
町の人たちは今でも明智光秀を「我が殿様」と思っています。
かつて、「平清盛」が大河になったときに福知山の友が

「明智光秀はほんまはええ殿様やったんで。
 町の人もみんな慕っとるんや。
 いつか大河にならへんかなと思うんや。」


と言っていましたが本当に町中があたたかい雰囲気でした。

さて、そんなこんなで福知山城。

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おお!立派な城構え!!
登城していくと

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おお、何と分かりやすい転用石・・・。
五輪塔の下の四角い部分でしょうか。
しかし、これはまだまだ序の口でした。

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ええ!転用石だらけじゃないですか??
拡大するとこんな感じです。

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では問題です。次の中で転用石はどれでしょうか。

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わたしが見つけたのはこれです。

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が、間のくり石とかにも五輪塔の先っぽ使っているような感じなので
本当はもっとあるのかもしれません。
そして石垣の角。
一番四角い石が必要とされる所・・・・。

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おおう。こんだけ立派な墓石全部引っこ抜いて石垣に・・・。
ひょっとしてそのせいであんな末路になったんではと思ってしまいます。

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看板説明を読むとどうやら、安土城も同じく転用石が多い城らしいです。
あ、うん。察し。
まあ、これだけ立派な石垣を短期間で作ろうとしたら
貴重な石材は使わなければ損だと思ったのでしょう。
滅ぼした相手なので弔う人もいないでしょうから・・・。

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城跡に建っているのは復元天守で、中はちょっとした資料館になっています。
今回は明智光秀と福知山のつながりを示す展示でした。
地元の方から愛されているんだなあとひしひし伝わりました。

どうせなので図録をと尋ねたら、ボランティアさんに

「??図録?すみません少々お待ちください。」

とわざわざ学芸員さんを呼んで来られたようで申し訳なかったです。
あれ?図録って専門用語??
と思いながらあれこれ教えてもらい、お勧めの本をゲット。
時間がないのでゆっくりお話しできなかったのですが
色々と楽しかったです。
広島から来ましたと言うと、この方も先週郡山城に来られていたようで
「毛利元就が人柱を救った話にとても感動して
 バッチを思わず買ってしまったんです!」

と百万一心のことを熱く語って下さいました。
それから受付のお姉さんがとても親切に教えてくださって
感動したとも仰っていました。
安芸高田に行ったときにはお伝えせねばと思います。

そんなこんなで麓まで下りて閉館まで40分のところで
資料館?に入ることができました。
大河ドラマの資料館になっていて宮島の民俗資料館の蔵のような展示でした。
まあ、予習代わりに見とくかとざっと回って出ると5時。

ううん。急ぎ足だったのでお城の外側だけもう一度見ようと上へあがりました。
でも誰もいません。ライトアップもあるし夜間も入れるはず。
鎖も張ってないしと誰もいない中びくびく上がりました。

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あ、広場の奥に何かある。

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明智光秀の自販機!

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夕日に照らされて綺麗でした。
さて、電車が出るまであと1時間。
どこか関連して見れる場所はと探すと、
近くに明智藪というものがあるので足を延ばしてみました。

城から北にわたる橋を渡ると突き当りにもう見えています。

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明智藪とは由良川の洪水に悩まされる城下町を救うために
光秀が築いた堤のことなんだそうです。
ううん。どこかで見覚えがあるような・・・。

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あ!思い出しました!
福知山の友達の結婚式!
新婦の思い出の写真の中に、ここを背景にした家族写真が出てきた!
さすが古文書分析学のレジュメを流してくれていた友。
渋い所を地元の思い出写真に選びますなあ。

もうちょっと時間あるようなので、ついでに御霊神社にも足をのばしてみました。

道中の街並みがとても素敵でした。

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映画館で「この世界の片隅に」をしていたようです。
なんだか嬉しいです。

それから福知山音頭。

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明智光秀が福知山城を作った時に働いていた人夫達が
木材などを引っ張るときに囃したところから生まれたそうです。
今年は盛大に行われそうだなあと思いながらまっすぐ歩きます。

というのも目指す目的地は道路の真正面。

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神社が優先で道が途中で曲がっています。
中世は辻に祠を置いて御まつりしてたようですが
ここもそういう古い町並みのままなのかもしれません。

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神社自体は江戸時代になって地元の人たちが建てたもの。
何百年前で、謀反人とされていた光秀のために
こんな立派な神社を建てられていたんですなあ。

それと神社の後ろに見つけた戦国時代の遺構。

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戦国時代の城下町ではこのように、道と道をわざとずらして交差させていました。
光秀の行った町割りが今も町に生きているのだろうなとしみじみと思いました。

「来ないで麒麟」~丹波探訪①~

「麒麟が来る」で今、熱い視線を浴びているのが丹波。
丹波は京都府と兵庫県にまたがる旧国名で、
明智光秀が攻めて拠点とした国です。
丹波の国衆は織田に従うものと対抗するものに分かれました。
対抗する者の代表は、「丹波の赤鬼」とされた赤井直正。
彼は、織田と対立する毛利に援軍を救援し、
侵攻してくる明智光秀を食いとどめようとします。
さあ、勝負の行方は?

・・・・と伝記風に始めたものの、ぶっちゃければ私の最大の謎は
「織田と毛利の入魂」からなぜ戦争になったのか。
なのです。
丹波方面の歴史の詳細については安芸ではほとんとつかめず、
丹波の国衆から出された手紙の年月を推定したいなあと思ったのと
元就さんが信長に依頼した
「丹波・但馬の賊船が尼子再興軍を助けないようにしてほしい。」
とあった願いで向かったのは明智光秀なのか?という疑問を解消すべく
丹波黒井と福知山へ行って参りました。

当方、旅に出たのは2月の三連休の初日。
新型肺炎のニュースで世情が騒がしくなりつつあるので
京都と大阪を経由せずに広島から福知山までを目指すルートを考えました。
一つは山陰ルート
赤井直正に援軍を請われた吉川元春が辿ったルートになるんですが
アクセスが片道7時間・・・。
今回は日帰りを考えていたので却下です。
もう一つは山陽ルート
加古川線で福知山を目指すルートです。
と考えると黒田家譜の記述がどこまで正しいかは分かりませんが
丹波や但馬へ向かうのに英賀は結構重要拠点だったのだなと思います。

で、よりによって新幹線が広島駅から停電で始発から大幅な遅れ。
予定していた加古川線には10分間に合わず、仕方なく
播但線→山陰本線→福知山線
と5時間半かけて行きました。
まあ、おかげで播磨の奥の様子を知ることができました。
播磨灘周辺は開けているものの、すこし奥へ行けば
山に囲まれ狭い谷筋がまっすぐ伸びている中国山地の端でよくみられる風景。
あ、これ横の連携無理だなあと悟りました。
逆に谷筋を一気に下れば海で、尼子晴久の天文9年播磨攻め
主要箇所さえ落とせば一気に行軍できるのであんなに破竹の勢いだったのかもしれません。

公共交通機関の旅の醍醐味は地名探し。
バスだと小字まで知ることができるのですが、今回は電車。
八木や氷上など見覚えのある国人の名前が駅名で出てきます。
で、思わず2度見したのがここ。

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おお!天空の城で有名になった竹田城じゃ!
毛利方国人だった方が詰めとった城!


駅裏が登り口になっているのでアクセス良好です。
しかし、一番山城登山の時期である冬季は登山禁止なのですね。
知らなかったです。今の時期は蜂も熊も蛇もいないので山に登るにはいい時期なんですが。

そんなこんなでお昼過ぎにようやく福知山。
・・・やったあようやく着いた!
大学の友達が福知山出身なので福知山はとても親近感ある地名なのです。
ここが彼女の生まれ育った場所かあと電車待つ間に駅周辺を散策、
駅には観光案内所があり、光秀グッズがたくさん置いてありました。
とはいえ時間がないので本だけ買って再び駅へ。
今度は黒井を目指します。

黒井から降りると目の前にものすごく立派な山城が!

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麓の館から中腹の山門、本丸の石垣と全部セットで残ってます。
新幹線が通常通りであれば登れたのに!
と臍を噛む思いで展示会場へ。

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あれ?春日歴史民俗資料館どこ??
と迷いながら入った建物の2階で何やらしているようなので
上がってみました。

ちょうど、大河関連のことをしていたようで
大河の岐阜城のセットをバーチャル体験できるイベントをしていました。
せっかくなのでVRつけたんですが、すごい!!
ゲームの世界に丸ごと入った感じです。
大河ドラマだとあまり一階出てきませんが、武器がいっぱい。
で、ワープポイントまで歩くと画面が切り替わって2階へ。
自分で歩くとその分景色がきちんと変わるのです。
いつも斉藤道三がいる御座所から縁側の方へ出ると
きちんと景色も動く!!
わあ!すごい!!

と思ったより楽しめました。

で体験した後に教えてもらった展示場へ。

黒井の城主、赤井直正を中心に古文書や関連物がありました。
赤井直正、名前は聞いたことはあるけどどんな人だっけ?
と思っていたら歴史マニアの親子がわりと大きい声で解説していたので
ありがたく聞かせてもらいました。

赤井直正は赤松家の末裔で養子に出されます。
しかし養子先の叔父を殺して黒井城を奪い
荻野悪右衛門と改名します。略して「荻悪」

吉川家文書に何度か出てくる名前です。
彼は織田信長に一度は従ったものの、反旗を翻し
丹波統一を進める明智光秀と敵対。
当時信長と敵対していた本願寺とも連携していたようで
下間頼簾書状が展示されていました。

内容は
「加賀の一向一揆と上杉謙信が連携できるよう調整中だ。
 毛利がなかなかはっきり返事をしないが
 あなたが味方についてくれると聞いて心強く思っている。
 紀伊の小倉監物に任せていた城が一つ落ちた。
 安芸の警固衆達が渡海してくれば策の立てようものあるのだが。
 丹波丹後出雲伯耆のことは吉川殿が向かわれるとのこと
 目出たいことである、」
(私訳)
と私には初見の史料で興味深かったです。
上杉謙信と加賀一向一揆が和睦していることから天正4年の9月26日。
とされている書状です。
資料館では丁寧に現代語訳がついていてどの書状も読みやすかったです。
「丹波国史」?を元にされていたようで、非常に気になりました。
どこかで売っていないかなと思いましたが、古本屋さんらしきところがない。
また、検索しても出てこないので本の名前を間違えて覚えてしまったのかもしれません。

あと、吉川家文書なので今回は出てなかったのですが
赤井直正が出した書状に
「詳しくは安国寺恵瓊に述べている。」
と元春に救援を願うものがあるそうです。

・・・恵瓊?え?恵瓊さんここまで来たの?
新幹線も電車も車もないのに!?


と非常に驚きました。現代でも最速で5時間半。
一体何日かかっていたのでしょうか・・・。
余談ですが、イベント会場の方や資料館の受付のお姉さんと話したときに
「広島から来ました~。」
と言うとすごく驚かれました。
いや、でも援軍要請されてたし、恵瓊さんも来てるわけだし
そこまで驚かなくてもとは思いましたが、
やっぱり距離考えるとものすごいのかなと。
それなのに元春に援軍を頼んだのは
上の本願寺絡みで伝手ができたためでしょうか。
まあ、尼子晴久が播磨攻めてるので出雲や伯耆からなら
丹波もすぐに来れるだろうと思ったのかもしれません。

ただ、最初から毛利方かというとどうもそうではないらしく
「山中鹿之助がどのが無事に通ったらしい。喜ばしいことだ。」
という書状を直正の子孫が持っていることから
どうも最初は尼子方に通じていたようです。

結構謎なのですが、
尼子再興軍は山陰でかなり広い連携があったようで
丹波・但馬の海賊衆に限らず内陸の氷上郡でさえ同情的です。
但馬は尼子経久が寄進した名草神社の三重塔があるので
元々関係が深そうだとして丹波は?
以前、講座で尼子氏が安芸武田を支援したのは
武田の本家である若狭武田からの要請だと聞いたのですが
尼子氏はやはり佐々木一族として京とのつながりが深かったのか。

結構意外なものがたくさんあって充実した展示でした。
会期は来週3月8日までだそうですが、
昨今の情勢を鑑みるに厳しそうです。

図録が出ないのか聞きまくったところ、
運よく教育委員会の方にお会いすることができました。
・・・同業者は同じ匂いがするので見分けやすい・・・。
お休みのところ申し訳なかったです。
図録は出す予定なんだそうですがまだ詳しいことは未定なので
とりあえずおすすめ頂いた資料館発行の薄い本を買いました。

春日町の方々はとても親切で
「わが町を盛り上げるぞ!」
と張り切っていらっしゃったので
皆さんにもぜひ訪れてほしいなあと思います。

・・・あれ?作文っぽいな。

戦国時代の安佐南区

そういえば、戦国時代の安佐南区(旧佐東町・安古市町・沼田町など)は
元就さん直轄領なのである程度貫高がわかるなあとちまちま調べることにしました。
なのでちょっとずつ更新していきます。ついでに他のも載せときます。
安佐南区は山がちなの低地はほぼ変化なしのはず。
併せて現在地も特定していこうと思います。
以下は広島県史資料編古代・中世Ⅳからです。

●単位
1町=約10000㎡   (1辺が100m) 学校の運動場ぐらい
1段=1反=約1000㎡(1辺が31.5m) 学校の体育館ぐらい
更に「大」や「半分」「小」といった区分けが安芸では使われていたようである。

(1)佐東郡
①安佐南区祇園
  下安
  内 田1町8段大         佐藤就綱         天文23年3月14日(元就書状)
②安佐南区長束
  内 中須賀 田6段       伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)
  内      田8段半分     伊藤半左衛門景尚   天文23年8月16日(元就書状)
  
不明
 北庄
 内 黒瀬脇かな口 畠5段    伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)
 内 畠9段分             伊藤半左衛門景尚   天文23年8月16日(元就書状)
 南部
 脇ひはくひ 畠1段         伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)
 同 脇 宗清畠2段         伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)  

③安佐北区後山
  内 西名 田1町9段大     佐藤就綱         永禄4年6月28日 
  同 迫名 内田1町2反小    佐藤就綱         永禄4年6月28日

(2)阿南郡(東区~呉市)

不明   
山ノ内西名田1町1段小      佐藤就綱 天文23年3月14日

「江戸時代の天文学」展感想

「江戸時代の天文学」
という天文&歴史という私の関心を思いっきり揺さぶる企画展を広島城でやっているのでお正月に行って参りました。
広島城。
外国人観光客が以前よりも増えていて驚きです。
英語表示がないので日本人が体験しているのを見て真似されてそこそこ楽しんでるようなので、
体験の所だけでも英語表示があるとよいかもなあと思いました。

それと、お正月休みだったので里帰り民や親戚の付き合いで来られたような方が多く、
「初めて来たけど、意外と広島城楽しいね。」
「久しぶりに来たけど、広島城すごいね。」

と他所の城と比べても面白いと言っていらっしゃる方が多くて嬉しかったです。
歴史にあまり興味無いけど他に行くとこないからとりあえず来てみた方が多かったです。

さて4階企画展示のフロアです。
まず目に着いたのがでっかい星図。「天文分野の図」
全天の星を描いたものですが、これ江戸時代前半のもの。
良く見ると星座名や星座線が全然違っていて何が何やらよくわからないことになっています。
一等星も二等星もごっちゃだから見えにくいんだろうなあと思います。
所蔵は山口県立山口博物館・・・・・。
ええ!こんなんあったんじゃ!知らんかったです。

書かれた方は渋川春海1639年生まれ。
・・・おおう、幕府が出来てまだ30年ぐらいの頃かあ。
ううん、でもこの名前どこかで聞いた気がするんじゃけど。
説明には
「幕府の囲碁指南役の安井算哲の息子として生まれ・・・」
あ、確かこれ小説で読んだ!そうじゃ「天地明察」じゃ!!
この小説面白いよ!と碁会所で薦められて一気読みしたんですが確かに面白かったです。
そして私が「初手天元の元祖の御方!!」と尊敬した方でした。
最近天元打たなくなったから忘れてました。
そうだ、初手天元で始まる打ち方を宇宙流というのはこの方から来ているんじゃった。

その隣には「天文成象」、これは横にびらんと星座を並べたもので、
天の川付近のサソリ座やいて座の南斗六星はみつけやすかったです。
星座線がこれは変わらないのだなあと思いました。

そして江戸時代に出された天文書「天文瓊統」も展示されていたんですがこれぶちすごい!!
太陽と月の位置や、月の満ち欠けは公転によるものだと説明してあって、
これが江戸時代前半!!1600年代!!
と驚きました。というのも、「春霞集」が編さんされた1570年頃、
元就さんが
「地上は曇りだが雲の上に行けば月が煌々と明るいのだろうな」
と詠んだ和歌を三条西さんは
「月が見えない時は雲のどこかに宿っているからでしょうに、不思議な歌ですね」
と批評しているのです。
つまり三条西さんは月は雲と同じ高さにあるものと思っていたようで
当時の都人ですら天文知識は平安時代となんら変わることがなかったようです。

ところが、その100年後には月は雲どころか宇宙に浮いていて、
丸い地球の周りを周っていると西洋や中国の天文学を交えてそこまで理解できるようになった。
ガリレオガリレイが月が天体であると発見したのが1609年。
渋川さんのわずか一世代前なのでガリレオにつけられた異端者の烙印はまだ消えていません。
1737年まで葬儀が行われなかったことからそこまで禁書に近い扱いだったはず・・・。
しかも当時は鎖国により西洋の書物は手に入りにくかった時代。
そんな中、奇跡的にもガリレオの「天文対話」を手に入れることができたのはすごいなと思います。

ただ、この「天文対話」は地動説を唱えてはいけないと言われた後に書きあげたものなので
「天文瓊統」は太陽系の図が妙なことになっています。
太陽を中心に地球以外の全ての惑星が公転し、月も地球の周りを公転してるのに
地球だけが公転せずに書かれています。
ガリレオが泣く泣く削った箇所がそのまんま出ているのだろうなあと思うと切ないです。

その横には出ました伊能忠敬の日本地図。
広島に伊能忠敬が来て測量した時の様子を描いた絵巻が残っています。
海沿いを渡ってきたので、三津浜、竹原、鹿老渡となど風待ちの港の名前があります。
宮島では大願寺に泊ったようで、勝海舟も大願寺で講和会談をしていますし、
当時幕府の関係者は大願寺が宿所になったのかなと思いました。

何故測量が天文に関係あるかというと、星の見える位置は緯度によって変わります。
見えている星の高度が1度変わった場合、その間に南北に移動した距離が分かれば
地球全体の1周の距離が分かることになり、正確な地図を作ることができます。
なので伊能忠敬も天文学を学んでおり、その関係で今回展示されているようです。

・・・一般の方はこの日本地図は「わあすごいね」と見てましたがあとのは素通りしていて、ああ勿体ない!
「そこに宮島の地名があるんですよ。」「ほらここにおり姫星ってありますよ。」
と言いたくてうずうずしましたが我慢しました。
会期が2月まであったらお子様達を連れてきたかった・・・。絶対楽しいと思うんですが・・・。
翻刻文が多いのでまた主任に却下されそうだなと。

あと象限儀の説明で萩の明倫館所蔵のものは鹿老渡の人が作ったものらしいです。
写真撮っとけば良かった・・・。
明倫館のは写真撮り放題なんです。
で、何で倉橋島の突端の小さな町の鹿老渡の人が象限儀を作ったかというと
伊能さんが立ちよった場所だというのもあるそうですが
色んな交流から生まれたもののようです。

天文学に限らず研究は色んな意見を交えることで深まります。
だからなのか測量図の次に伊能忠敬と研究者との交流ということで
頼春水とのやりとりの手紙がありました。
伊能さん元の身分もあって純朴な人柄がにじみ出る字でした。
他にも伊能忠敬の師、高橋之至やその息子の景保、
月のクレーターに名を残している麻田剛流や
計測機器を開発した間重富ら天文の歴史学で出てくる方がいっぱい。
大学でちらっと本で見たなあというレベルだったので
解説が分かりやすくて助かりました。

ただそれらは主に大阪の話。
広島はどうであったかというとわずかに資料に残るのが武田さんらしいです。
彼は大阪の書店でふらっと立ち寄ったときに間さんに出会い、
話が弾んで他の研究者仲間に紹介してもらったそうです。
師としても慕われていて私が探していた厳島神社の算額は
彼の功績を伝えるために弟子らが奉納したようです。
算額!!
図形問題じゃ!!

と解こうと思ったんですが字が小さいのと薄れて私は読めませんでした・・・。

あと桑原卯之助さんも彼の弟子らしく、通りでベルヌーイの定理を理解しているはずだと納得しました。
八木用水は取水口と用水路の幅が均等ではないのです。
水の流れをよくするために出口を細く設計していて
一介の大工(先祖は武田家臣?)にしてはすごいと思っていました。

あと気になったのが月面スケッチ
妙なんです。これ。
月の裏側は細かなクレーターに覆われ、海のような大きなものはありません。
通常、月の裏側は見ることはできないのですが、江戸時代にスケッチされた2枚のは
真ん中に細かなクレーターの山脈があり、片側はのっぺらでもう片側は海が見えます。
江戸時代の月も裏側は見えるはずないのですが、裏側が半分見えているような図で
いなげじゃなあと思いました。

江戸時代の天文学すごいなあ!!
と感動していた私を最後にがっくりさせてくれたのが三球儀。
ペリーから送られたものではないかとされるものですが、
これ、理科室にある!全く同じじゃん!
ろうそくを電球に変えただけじゃろ!!
200年も教具が変わっとらんってどういうこと!?

しかもこれ月の満ち欠け分かりにくくてうちよう使わんやつ。
と科学技術の進歩と教具の進歩のなさに愕然としました。
まあそうですよね。
この時代に未だにカセットCDラジカセが現役、
図書カードも未だ記入式、理科室にエアコンないですから。
うん・・・。

「毛利と織田戦争と備後の国人」感想

10月18日に福山の県立歴史博物館の講座に行ってきました。
「毛利と織田戦争と備後の国人」という題で、
講師は毛利博物館の館長代理の柴原直樹先生です。

先生は地元、福山出身。
「広島県の場合、歴史が西高東低で、
 安芸の方は毛利氏を中心に盛んに研究されている一方、
 備後はあまりぱっとした国人が浮かばない
 そもそも軍記物にも登場することが少なく、
 それは現代のゲームを見ていても同じだ。
 地理で見ると高梁川が備後の唯一の防壁で
 ここを崩されると秋まで一気に攻め込めるので崩壊してしまう。
 備後の国人達は戦国大名毛利氏にとってどのような位置づけだったのか。」

と仰られてでした。
確かに、最近戦国系のゲームで毛利も大分出るようになりましたが備後の国人ってほぼいません。
そもそも誰が備後にいたのかよくわからず、私が知っているのは宮氏、杉原氏ぐらい。
幕末の長州藩で高須さんが出てくるので高須はわかります。
それでもどんな活躍をしたのかは具体的にはよくわかってません。

ということで初めに毛利元就が隣国・備後をどう思っていたか。
「我等の事、数年芸備石国衆申し合い、すいちく仕り候」
(毛利家文書549号)

から元就さんは安芸と同様、石見も備後も枢軸となる国だと考えていたようです。
元就さんの本拠、吉田はどちらかと言えば備北に近く、
備後の甲山や吉舎の人も病院は吉田まで行くぐらい。
町の人も文化も吉田に近いんだそうです。

あ、ついでにこの549号ですが、
文字が斜めで細いので体調が悪かったのだろうと先生仰ってでした。
輝が
「僕も大友攻めしたい!!」
と言い出したらしく、じいさまの元就さんが
「いや、みんな行っとるんじゃけえ行く必要はないけえ。」
と説得している手紙なんだそうです。

・・・・輝。じいさま休ませてやりんちゃいや。

ところが、4男の元清は
「備後衆者表裏なる衆にて候」
(毛利家文書847号)

と不信感丸出し。

・・・広島県民を分断する例の書状
いや。そがいには思っとりませんけえ。
方言もイントネーションも違ってても同じ県民じゃと思いよりますけぇ。
備後民の先生に言われると何だか心が痛みます。

元清のは天正7年に出したものですが、何でそう思ったのか。
それには和智さんの事件が関係するようです。
和智さんは陰徳じゃと隆元を毒殺したから後に誅伐されたとあるのですが
「隆元は当主。当主が殺されたのに何もしないのはありえない。
 和智氏の事件は5・6年後なのでそこまで放っておくことはない。」

と仰ってでした。
和智氏は備後山名氏と交渉可能な家で備後衆の取りまとめ役。
毛利とも早くから同盟を結んでいた家で、高橋討伐の頃からの仲です。
あまり強引なことはしない元就さんが珍しく強引な手を使っており、
時期的にも、隆元死去、元就さん自身体調を崩し、
跡継ぎの輝元はまだ16歳。
和智氏の扱いが輝元には重いかもと消したのかもしれませんが
まだこの事件の時に20代だった元清が多大な不信感を抱くような
何かがあったんではないかとのことでした。

・・・元就さんは家臣の粛清は一番してはいけないことだと手紙で述べているんですが
和智兄弟も最初から殺すつもりではなかったようで
棚守さんの話を聞く限りでは、
何らかの事件を起こした兄弟が証人喚問を受けて厳島神社に抑留され、
拘留場所から逃げ出して本殿に立てこもったので仕方なく番兵たちが討ち入り、
兄弟は討ち果たされたらしいです。
なので何か事件を起こしたのは確かなのですが、
殺してしまったのは不慮の事故だったのかなあと。
で、この時期で毛利を裏切るようにそそのかしたのは誰かというと大友かなあと。

で、織田との戦いですが、備後自体は平和で
甲山や世羅の国人が織田との戦いに駆り出されたようです。
対尼子の籠城戦の時には領地から交代で城番を出しており、
無理はしないでねといいつつも無理しながらの持久戦。
それは上杉も同じで似たようなことは全国でしていたようです。

で、その出張のとりまとめをしていたのが和智さんの代わりに台頭した上原さん。
湯浅家文書36号隆景書状によると、
対織田戦争で岩山(場所不明。庭瀬の側?)城に籠っていた
備後国人の湯浅氏が
「仕事しとるんじゃけえきちんと褒賞をください・・・。」
と所領の要求があったそうです。
嘆願手順は湯浅→上原→隆景→輝元で、
上原氏が備後衆の取りまとめをしているのがわかるんだそうです。

そこで毛利方は宇喜多の備前・美作を落としたら300貫やると約束。
ようはまだ敵の領地なので戦に勝ったら褒賞をやるという約束手形です。
負ければただ働き。
今までの大内・尼子の時にはこのようなことはなかったそうですが
対織田は約束手形を出すことで戦いを乗り切ったそうです。

因みに、織田や秀吉は国人衆の離反を促すために
味方になれば1国をやると豪華な報酬をちらつかせてきます。
しかし、毛利は300石、村1つ分の地味な約束手形。
それでも境目の国人は毛利のつくことが多く、
織田&秀吉は調子が良すぎて信頼されなかった
んではないか。
と仰ってでした。

・・・確かに、黒田官兵衛などは逸話からすると播磨一国を約束されたようですし
秀吉のやり口だと絶対そう誘っているんでしょうが、結局一国を貰うことはなかった。
そもそも日本は60カ国しかないので、侵攻する国々でそんな約束していたら国が足りんなあと思います。

また、毛利方は備中の城に備中の国人衆だけではなく備後の国人も一緒に入城させています。
備中方は裏切ることがしにくく、備後も周囲に近所の国人衆が在城しているので
1人抜け駆けすると地元に帰れなくなる。
人間関係によるしがらみで防御していたのですが、意外とこれが効いたようで
岡山に入ってから秀吉の進撃は止まり、備中に入るのに2年もかかったんだそうです。

・・・きちんと調べてみると意外と秀吉は快進撃ではないんじゃなあと思います。
三木や鳥取などの敗戦が歴史上は大きく取り上げられるから一方的に圧されて見えますが、
備前・備中は一進一退ではあるようです。
こないだも美作と美中の境目城の論文みましたが毛利方が勝っていましたし・・・。

ところが、天正10年、上原元将は秀吉の調略になびきます。
上原が寝返ったために備後衆も動揺したようで
備後国人の湯浅さんも守っていた岩山城を命令なく放棄し
後に詮議されたようで書状で弁明しています。
それが湯浅家文書90号。それによると
「岩山城を引いたのはしかたない。
 長井(吉田衆・毛利家の直臣で検臣)に上原から
 裏切るよう命令された手紙を見せたのだから私が裏切る筈がない。
 岩崎(輝元のいた場所)に送った使者が戻るまで待とうと私は言ったのだが
 長井は周りが全て寝返ったのかもしれないし逃げるべきだと言ったのだ。
 長井に念書も書かせている。」

とあり、上原は裏切る時に周辺の国人である湯浅らも誘ったことがわかります。
ただし、誰1人として上原にはなびかず、どの城も落ちませんでした。
備後衆の取り次ぎ役だった上原元将ですが
検臣である長井や口羽が思っていた以上に人望が無く、
和智ほどの家格も高くなかったため、
取り次ぎ役として上に立てたのも毛利の威光あってのもの。
逆に裏切った備後勢を備中勢が奮戦して追いだしたところもあるそうです。

・・・上原さん、己の牽制が毛利の威光有りきだと理解できんかった時点で
ああ、そりゃあ備後衆の頭目として認められんかったんじゃろうなあと思います。
だからこそ、器量不足を埋めるために元就さんも娘を嫁がせたんでしょうが
やっぱり駄目じゃったんじゃなあと。

・・・それと、「人は石垣~」で始まる言葉がありますが、ほんまにそうなんじゃなあと思いました。
先生は国人達のことを
町内の自治会長だと考えてもらえればいい。
 お役目御苦労さまの手紙は草取りに来た人にジュース配っているのと同じ。
 隣の町内会との関係があるから1人抜け駆けなんかできない。
 もし勝手に帰国したら「あいつんとこ帰ったらしいよ。」と孤立する。
 そして、如何に地域が活性化するか、地域を守るかのために考えている。」
と仰ってましたが、なるほど言い得て妙だなと思いました。

最後に、毛利から見た備後国人ですが、
基幹国ではあるが、一心同体ではない
如何に裏切られずに味方にするか考えなければいけない相手だと
先生はまとめていらっしゃいました。

あ、あと裏切った上原さんは草野さんに討たれたそうです。

・・・別説だと元就さんの娘が旦那の上原を刺したという話も残っています。
まあ、「私がいるのに毛利を裏切るの!!」となるでしょうなあ。
人質にされたらその時点で戦終了ぐらいの重さですし。

あ、因みにこの娘さん、「こうざん」(甲山)という名で書状に出てきます。
上原氏の居城があった備後の所の地名です。
ですが、戦争中の備中に夫と一緒に在陣していたようで、
元清が姉妹である「かうざん」の事を心配しています。
そういう元清も奥さんと一緒に備中猿掛城におり、
秀元はそこで生まれています。
毛利家唯一の岡山県生まれの武将です。
長期出張とはいえ戦線に近いとこに夫婦で行くって
対大内・尼子の頃には文献で見られないので
対織田は何故そんな危険なことをしているのか謎だなあと思いました。

今回は備後出身の先生だからこそ語られる視点がいつもと違って勉強になりました。
同じ広島県としてもっと備後のことを知らねばと思いました。
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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