「明智光秀の城下町・福知山」~丹波探訪②~
黒井を堪能したあと、一旦福知山に戻ります。
電車の乗り継ぎ考えると福知山を起点にすると便利なのです。
で、行って参りました福知山城。
駅から歩いて15分。
至る所に「明智光秀」推しの旗が立っています。
福知山は明智光秀が城を建て、作った城下町。
また、善政を施いたため、領民からはかなり慕われていたようで
町の人たちは今でも明智光秀を「我が殿様」と思っています。
かつて、「平清盛」が大河になったときに福知山の友が
「明智光秀はほんまはええ殿様やったんで。
町の人もみんな慕っとるんや。
いつか大河にならへんかなと思うんや。」
と言っていましたが本当に町中があたたかい雰囲気でした。
さて、そんなこんなで福知山城。

おお!立派な城構え!!
登城していくと

おお、何と分かりやすい転用石・・・。
五輪塔の下の四角い部分でしょうか。
しかし、これはまだまだ序の口でした。

ええ!転用石だらけじゃないですか??
拡大するとこんな感じです。

では問題です。次の中で転用石はどれでしょうか。

わたしが見つけたのはこれです。

が、間のくり石とかにも五輪塔の先っぽ使っているような感じなので
本当はもっとあるのかもしれません。
そして石垣の角。
一番四角い石が必要とされる所・・・・。

おおう。こんだけ立派な墓石全部引っこ抜いて石垣に・・・。
ひょっとしてそのせいであんな末路になったんではと思ってしまいます。

看板説明を読むとどうやら、安土城も同じく転用石が多い城らしいです。
あ、うん。察し。
まあ、これだけ立派な石垣を短期間で作ろうとしたら
貴重な石材は使わなければ損だと思ったのでしょう。
滅ぼした相手なので弔う人もいないでしょうから・・・。

城跡に建っているのは復元天守で、中はちょっとした資料館になっています。
今回は明智光秀と福知山のつながりを示す展示でした。
地元の方から愛されているんだなあとひしひし伝わりました。
どうせなので図録をと尋ねたら、ボランティアさんに
「??図録?すみません少々お待ちください。」
とわざわざ学芸員さんを呼んで来られたようで申し訳なかったです。
あれ?図録って専門用語??
と思いながらあれこれ教えてもらい、お勧めの本をゲット。
時間がないのでゆっくりお話しできなかったのですが
色々と楽しかったです。
広島から来ましたと言うと、この方も先週郡山城に来られていたようで
「毛利元就が人柱を救った話にとても感動して
バッチを思わず買ってしまったんです!」
と百万一心のことを熱く語って下さいました。
それから受付のお姉さんがとても親切に教えてくださって
感動したとも仰っていました。
安芸高田に行ったときにはお伝えせねばと思います。
そんなこんなで麓まで下りて閉館まで40分のところで
資料館?に入ることができました。
大河ドラマの資料館になっていて宮島の民俗資料館の蔵のような展示でした。
まあ、予習代わりに見とくかとざっと回って出ると5時。
ううん。急ぎ足だったのでお城の外側だけもう一度見ようと上へあがりました。
でも誰もいません。ライトアップもあるし夜間も入れるはず。
鎖も張ってないしと誰もいない中びくびく上がりました。

あ、広場の奥に何かある。

明智光秀の自販機!



夕日に照らされて綺麗でした。
さて、電車が出るまであと1時間。
どこか関連して見れる場所はと探すと、
近くに明智藪というものがあるので足を延ばしてみました。
城から北にわたる橋を渡ると突き当りにもう見えています。

明智藪とは由良川の洪水に悩まされる城下町を救うために
光秀が築いた堤のことなんだそうです。
ううん。どこかで見覚えがあるような・・・。

あ!思い出しました!
福知山の友達の結婚式!
新婦の思い出の写真の中に、ここを背景にした家族写真が出てきた!
さすが古文書分析学のレジュメを流してくれていた友。
渋い所を地元の思い出写真に選びますなあ。
もうちょっと時間あるようなので、ついでに御霊神社にも足をのばしてみました。
道中の街並みがとても素敵でした。




映画館で「この世界の片隅に」をしていたようです。
なんだか嬉しいです。
それから福知山音頭。

明智光秀が福知山城を作った時に働いていた人夫達が
木材などを引っ張るときに囃したところから生まれたそうです。
今年は盛大に行われそうだなあと思いながらまっすぐ歩きます。
というのも目指す目的地は道路の真正面。

神社が優先で道が途中で曲がっています。
中世は辻に祠を置いて御まつりしてたようですが
ここもそういう古い町並みのままなのかもしれません。



神社自体は江戸時代になって地元の人たちが建てたもの。
何百年前で、謀反人とされていた光秀のために
こんな立派な神社を建てられていたんですなあ。
それと神社の後ろに見つけた戦国時代の遺構。

戦国時代の城下町ではこのように、道と道をわざとずらして交差させていました。
光秀の行った町割りが今も町に生きているのだろうなとしみじみと思いました。
電車の乗り継ぎ考えると福知山を起点にすると便利なのです。
で、行って参りました福知山城。
駅から歩いて15分。
至る所に「明智光秀」推しの旗が立っています。
福知山は明智光秀が城を建て、作った城下町。
また、善政を施いたため、領民からはかなり慕われていたようで
町の人たちは今でも明智光秀を「我が殿様」と思っています。
かつて、「平清盛」が大河になったときに福知山の友が
「明智光秀はほんまはええ殿様やったんで。
町の人もみんな慕っとるんや。
いつか大河にならへんかなと思うんや。」
と言っていましたが本当に町中があたたかい雰囲気でした。
さて、そんなこんなで福知山城。

おお!立派な城構え!!
登城していくと

おお、何と分かりやすい転用石・・・。
五輪塔の下の四角い部分でしょうか。
しかし、これはまだまだ序の口でした。

ええ!転用石だらけじゃないですか??
拡大するとこんな感じです。

では問題です。次の中で転用石はどれでしょうか。

わたしが見つけたのはこれです。

が、間のくり石とかにも五輪塔の先っぽ使っているような感じなので
本当はもっとあるのかもしれません。
そして石垣の角。
一番四角い石が必要とされる所・・・・。

おおう。こんだけ立派な墓石全部引っこ抜いて石垣に・・・。
ひょっとしてそのせいであんな末路になったんではと思ってしまいます。

看板説明を読むとどうやら、安土城も同じく転用石が多い城らしいです。
あ、うん。察し。
まあ、これだけ立派な石垣を短期間で作ろうとしたら
貴重な石材は使わなければ損だと思ったのでしょう。
滅ぼした相手なので弔う人もいないでしょうから・・・。

城跡に建っているのは復元天守で、中はちょっとした資料館になっています。
今回は明智光秀と福知山のつながりを示す展示でした。
地元の方から愛されているんだなあとひしひし伝わりました。
どうせなので図録をと尋ねたら、ボランティアさんに
「??図録?すみません少々お待ちください。」
とわざわざ学芸員さんを呼んで来られたようで申し訳なかったです。
あれ?図録って専門用語??
と思いながらあれこれ教えてもらい、お勧めの本をゲット。
時間がないのでゆっくりお話しできなかったのですが
色々と楽しかったです。
広島から来ましたと言うと、この方も先週郡山城に来られていたようで
「毛利元就が人柱を救った話にとても感動して
バッチを思わず買ってしまったんです!」
と百万一心のことを熱く語って下さいました。
それから受付のお姉さんがとても親切に教えてくださって
感動したとも仰っていました。
安芸高田に行ったときにはお伝えせねばと思います。
そんなこんなで麓まで下りて閉館まで40分のところで
資料館?に入ることができました。
大河ドラマの資料館になっていて宮島の民俗資料館の蔵のような展示でした。
まあ、予習代わりに見とくかとざっと回って出ると5時。
ううん。急ぎ足だったのでお城の外側だけもう一度見ようと上へあがりました。
でも誰もいません。ライトアップもあるし夜間も入れるはず。
鎖も張ってないしと誰もいない中びくびく上がりました。

あ、広場の奥に何かある。

明智光秀の自販機!



夕日に照らされて綺麗でした。
さて、電車が出るまであと1時間。
どこか関連して見れる場所はと探すと、
近くに明智藪というものがあるので足を延ばしてみました。
城から北にわたる橋を渡ると突き当りにもう見えています。

明智藪とは由良川の洪水に悩まされる城下町を救うために
光秀が築いた堤のことなんだそうです。
ううん。どこかで見覚えがあるような・・・。

あ!思い出しました!
福知山の友達の結婚式!
新婦の思い出の写真の中に、ここを背景にした家族写真が出てきた!
さすが古文書分析学のレジュメを流してくれていた友。
渋い所を地元の思い出写真に選びますなあ。
もうちょっと時間あるようなので、ついでに御霊神社にも足をのばしてみました。
道中の街並みがとても素敵でした。




映画館で「この世界の片隅に」をしていたようです。
なんだか嬉しいです。
それから福知山音頭。

明智光秀が福知山城を作った時に働いていた人夫達が
木材などを引っ張るときに囃したところから生まれたそうです。
今年は盛大に行われそうだなあと思いながらまっすぐ歩きます。
というのも目指す目的地は道路の真正面。

神社が優先で道が途中で曲がっています。
中世は辻に祠を置いて御まつりしてたようですが
ここもそういう古い町並みのままなのかもしれません。



神社自体は江戸時代になって地元の人たちが建てたもの。
何百年前で、謀反人とされていた光秀のために
こんな立派な神社を建てられていたんですなあ。
それと神社の後ろに見つけた戦国時代の遺構。

戦国時代の城下町ではこのように、道と道をわざとずらして交差させていました。
光秀の行った町割りが今も町に生きているのだろうなとしみじみと思いました。